今更聞けないQ&A


ぶっちゃけ、知ってるようで知らない事コーナー


 寺と神社の違いって何?

A 意外と知らないですよね。歴史が古く日本オリジナル文化は神社です。

 お寺とは、仏教。仏教は日本に160派の宗派があります(多!)。しかし、元をたどれば「お釈迦様」の考えが元です。お墓があり、仏様を祀り仏像があります。不動明王や文殊菩薩や釈迦如来、地蔵菩薩や薬師如来やら大日如来などの大きな像がありますよね。で、いろいろ伝説があるのです。例えば不動明王の事だと、

 「釈迦が悟りを開くために菩提樹で坐禅中に煩悩を焼きつくしている姿」だと言われています。また、心の中決意は鬼の覚悟の心情を表し、子供を見つめる父親(厳しく育てるが、内心は愛している)姿をも表現している。

とあります。明らかに神様とは違うでしょう?
 
 院・庵・坊・大師・寺院と呼ばれる所は、お寺ですよ。

 では、神社とは?
 
 いわくら(磐座)や神の住む場所で、立入禁止(禁足地)で行われた祝事典で臨時に建てたひもろぎ(神籬)が起源とされています。常設されているものではなかった。神社は神道に属し、日本の神様が祀られています。

 神社の中で格式が高い所には「神宮」がついています。大社も神道に属しています。
神宮、大社とついている名前の所は、天皇や皇室先祖神も祀っています。

 また、鳥居があるのも神社です。なぜ?鳥居があるのか。神社には、神が降りてくる場所があります。
神域といいます。神域に降りた神様と人間界を区別し、お互いの存在を分かち合いながら住み分けるために、
鳥居を建てたとされています。

 神社は日本が起源で、仏教より歴史が長い。日本だけの宗教とされています。仏教との大きな違いです。


 でもね、お寺の中に神社があったりするんだけど? 

A 寺院の境内に神社をみかける時ありますよね。お稲荷さんとかよく見かけますよね。逆パターンもあります。

 これは、複雑です。簡単に書いてみると、

神様と仏様は別々です。しかし、信仰の対象としては同じですよね。神と仏を同じように考える神仏習合は、平安時代中期から末期に流行った(広まった)考え方で、神仏混淆(しんぶつこんこう)とも言います。仏教は外国由来。

 神社とお寺は別に敵対している事もなく、むしろ助け合った歴史も多くあります。宮の中に堂があったりもします。
これは、神になる前の仏を祭ったお堂だったりします。また、大きなお寺(東大寺とか)建設などの時に宇佐の八幡様
が手助けしたとか沢山話しがある。

 しかし、明治政府は「神仏分離令」を発令しました。徳川が仏教を保護したのに対してなのと、外国の一神教的な物に合わせようとした、などと言われています。それで悲しい歴史が起こります。
全国各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こります。
 また、この話に関係ないが、キリシタン大名などが廃仏毀釈をした歴史もあります(自分が収めている地域)。

 そんあ事があった中、難を逃れるために名前や由緒を偽って難を逃れた所もあります。

 聖武天皇の国分寺配置の政策などの歴史もあって、寺院と神社の神仏習合形態もあったりしました。

 また、神が解脱するために仏に帰依する事もあるとの考えから、元々あった神社の中にお寺が建てられたパターンもあったりします。神宮寺なんかそうです。また、お寺に関係のある神を寺の守り神として境内に神社を建設したパターンもあります。東大寺なんか大仏殿の建立に協力した宇佐八幡宮とつながりがあります。ですから、寺院の守護神を置いている所もあります。本来は、別々の文化です。お寺と神社の事を知っていると、理解しやすいと思います。

 さらっと書いてみました。もしかしたら、もっと複雑な歴史なんかあるかもしれません。


 弘法大師って?

A 弘法大師空海って聞くんだけど、空海?弘法大師?(ちょっと長くなるけど、知っときたいよね)

 774年(宝亀5年)6月15日生まれ(諸説あり)。現在の香川県にある善通寺(75番札所・生まれた時は、まだ善通寺ではない)で生まれました。父が郡司(ぐんし・地方官)で佐伯 値 田公(さえき のあたい たぎみ)豪族で姓は直。母は、阿刀大足(あとのおおたり 平安初期の学者)の娘(または妹)阿刀氏の女性で名前は諸説ありますがはっきりわかっていない。

 名前は真魚(まお)と名付けられた。幼い時、かなり頭のいい子で貴者(とおともの)と言われたりする。
そして、叔父(平安初期の学者)に連れられて奈良(都)へ行く。官吏(かんり・国家機関に勤務する者)を目指して、
大学に入学。そこで詩や文章、儒教を学んだが違うと感じ仏の教えを学ぶ方向へ動いて行き大学をやめてしまう。

 勤操大徳(ごんぞうたいとく・奈良岩渕寺)から仏教を聞く。虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)なる物を教えてもらう。これは、真言を百日に百万唱えれば教法の文義(ぶんぎ・文章の意義)を暗記する行を授かる。ですが、この頃の事は不明な事も多いそうです。

 19歳過ぎから、山林での修行をはじめ、儒教・道教・仏教の比較をしたりしている。聾瞽指帰(ろうこしいき)
を書いている(金剛峯寺に残っている。国宝)。

 四国で山林修行などをしている中、大日経に出会う。高知県の室戸岬の御厨人窟(みくろど)では、口に明星が飛び込んできたらしい。この時、悟りを開いたと言われている。そこから、空と海しか見えないのですが、それで「空海」と名乗ったと伝わっています。

 延暦23年(804年)に遣唐使(けんとうし)が遭難した。その為、来年も派遣される事を知る。
このタイミングで出家(得度受戒)したとの説が有力だそうです。

 同年、正規のの遣唐使の留学僧として20年間の予定で唐に渡ります。この時のグループの中では、無名だった。
周りには、阿波国出身と伝えられる霊仙(りょうせん)などもいた。この人は、三蔵法師になる人です。
ちなみに、インドなどから経典をもたらし漢訳した人々の尊称です。

 空海が突然、当時の日本代表である遣唐使に留学僧として選ばれたか?は謎だそうです。

 この時、4つの船で唐を目指したが到着できたのは2つ。空海の乗った船は、嵐で大きく航路を逸れ福州長渓県赤岸鎮に到着します。しかし、海賊ではないか?と疑われます。50日の間待機させられたそうです。この時、福州の長官への懇願書を、遣唐大使に変わって代筆しています。空海は達筆で有名ですよね。

 いろいろあって、西明寺に入り滞在。同時に住居となる。この頃、梵語に磨きをかけた。密教を学ぶには必要な技術です。
いろんな寺で修行をするのですが、、灌頂(かんじょう・正当な継続者になるための儀式)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)の名前をもらう。

 この時、500人あまりの人々(お世話になったお寺などから)を招いて食事の接待をし感謝を表したそうです。

 また、土木技術や薬学など他分野の勉強もしている。

 空海が留学していたのは2年間ほど。しかし、成果が大きかったと本人は感激しているらしく「虚しく往きて実ちて帰る
と言っています。

 のちに入京するが、最澄(さいちょう・留学仲間)の尽力や支援があったそうです。しかし、この二人はうまく行かなくなり決別する。

 いろいろあって時は過ぎ、高野山に修行の道場の建設に着手します。嵯峨天皇に願い出て高野山をご下賜(身分の高い者が低い者に物をあたえる)したため成功している。

 承和2年(835年)に、高野山にて、多くの弟子に囲まれて入底されました。醍醐天皇より「弘法大師」
の称号が送られました。


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