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 青龍寺(しょうりゅうじ)

 ここに行くとき、宇佐の大橋をわたります。しかし、昭和48年までは渡し船。
何故わざわざ書いたかってね、渡し船を運行していた人達が凄い。
弘法大師が青龍寺を建設する時、お供が8人いた。その子孫が「龍の渡し」
として、渡し船を運行していた。凄いですよね。昭和48年だから、千年以上も続いていたって事ですよね。

 空海が帰国した時、縁のある所に導かれるよう金剛杵(こんごうしょ)を投げた。
山中の松の木にあると感得した。嵯峨天皇に上奏(じょうそう)した。
恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名前の寺を建設した。投げた金剛杵(こんごうしょ)は残り2つ。残りは高野山と足摺岬。

 本尊は波切不動。遣唐使船が暴風雨に遭遇した時、不動明王が現れて剣で波を切って救った。空海がその姿を刻んだもの。

 ここの本堂などの配置は、唐の寺と同じ配置なんだそうです。お相撲さんの
「朝青龍」は、ここに近い明徳義塾にかよっていたいた事から、寺の名前にあやかって付けられているそうです。

 小さな湧き水(滝?)があります。88のお地蔵さんがあり、札所の名前と番号があります。回ったのと同じ御利益があるなんて言われているそうです。

本尊真言・のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん

御詠歌・わずかなる 泉に棲める 青龍は 仏法守護の 誓ひとぞきく
 岩本寺(いわもとじ)

 ここは本尊が5体もある。聖武天皇の勅願で行基が開創した七福寺が起源。
弘法大師は、五社五寺の福円満寺と発展させ、それぞれに本尊を安置。兵火によって焼失するが、一条氏によって再興。現在の名前に。

 ここの太子堂は、奥の院の背負い地蔵も兼ねています。猟師が獲物がみつからず「これ以上の殺生は無益」と自分の胸を矢で射た。妻に起こされ、傍らを見ると矢の刺さったお地蔵さんが倒れていたそうです。

 大師の七不思議。「三度栗」は大師の霊力で7回も花を咲かせ、3回も実る栗の木。この木は境内に残っています。大師が使い古した筆を植えた。筆にそっくりな草が生えた「筆草」。磯の貝が花びらになった「桜貝」。大師が娘の血を吸った蛭の口を封じた「口無し蛭」。人々がけがをしないように巻き貝の尖った部分を大師が除いた「尻無し貝」。難産の女性を大師が桜の木で加持して安産させた「子安桜」。盗難で困った庄屋のために大師が盗難よけの祈念をした「戸たてずの庄屋」などがあります。

 本堂の天井には、一般市民が書いた天井絵があります。

 歓喜天は、円形の珍しい形。本尊の歓喜天は、頭が像のインドの神主。
仏道修行の誘惑者として悪事を働くが、仏に帰依し、財宝・博愛の神となった。

本尊真言・★おん あみりた ていぜい からうん★おん ころころ せんだりまとうぎ そわか★おん あろりきゃ そわか★おん かかかびさんまえい そわか
★のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたら たかんまん

御詠歌・六つのちり 五つの柱 あらわして 深き仁井田の 神のたのしみ
 金剛福寺(こんごうふくじ)

 嵯峨天皇からの勅願を受けて弘法大師が三面千手観音像を刻んで開創。
等から投げた五鈷杵は足摺岬に飛来。歴代天皇の祈願所のほか、源氏の信仰があつく、多宝塔や諸堂を整備した。

 弘法大師は広がる太平洋に観世音菩薩の聖地・補陀落の世界を感得。
弘仁13年、大師49歳の頃だそうです。

 「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在。

 前の札所からは遠く、車で2時間・歩きで三泊四日。駐車場から専用バスがありました。行き帰りと乗りましたが、歩けなくもないなとの印象でした。

 室町時代には、尊海法親王(そんちょう ほうしんのう)が住職を務めた。「金剛福寺」の額はこの尊海法親王の筆です。

 頭をなでると幸運に鳴る亀が、納経所の前にあります。岩が沢山ある日本庭園は是非、ゆっくり見学したほうが良いと思います。

 このお寺から、歩いて足摺岬も見学すべきですね。ジョン万次郎の大きな銅像もあります。四国最南端。いろいろ散策すると、発見が多いです。

本尊真言・おん ばざら たらま きりく そわか

御詠歌・ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま
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