曼荼羅寺(まんだらじ) 弘法大師の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建された。当初は世坂寺(よさかでら)との名前だった。唐より帰国後、請来した金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置、大日如来を本尊として再興。 母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、山号・我拝師山、寺号・延命院・曼荼羅寺と改称した。四国霊場で最も古いそうです。 空海の手植え「不老松」2002年に枯死。不老松が枯れた跡に笠松大師があります。皆、よくさすってます。 西行の昼寝石があります。平安時代末期の歌僧・西行(さいぎょう)がよく昼寝をしたそうです。近くの「水茎の丘」に庵を建てて7年余り暮らしていた。 聖観音立像があります。四国88カ所記念切手にこの仏様のお顔が描かれているそうです。観音堂に安置。 本尊真言・おん あびらうんけん ばさらだどばん 御詠歌・わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ ふたたびみたび 帰らざらまし |
出釈迦寺 (しゅっしゃかじ) 弘法大師が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願った。 山の断崖から谷へと飛び降りた!落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立。 釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。約300年前までは山頂が札所になっていた。大正9年にふもとに移されたそうです。 大師が身を投げた所は「捨身ヶ嶽禅定」元は札所でしたが、今は寺の奥の院の所。境内から急坂を50分ほど上がった場所。ここからさらに100mほど登った場所で身を投げた。雲の中で弘法大師を抱きとめた天女は「紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降りた」そうです。 本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所。この場所で念仏を唱えると、捨身ヶ嶽禅定に登ったのと同じ利益(りやく)が得られると言われてます。 本尊真言・のうまく さんまんだ ぼだなん ばく 御詠歌・迷ひぬる 六道衆生 救はんと 尊き山に いづる釈迦寺 |
甲山寺(こうやまじ) 弘法大師が別当として満濃池築造を完成に導いた。朝廷から銭二万銭が与えられ、弘仁12年(821年)その銭の一部によって堂を建立。 この地を選んだのは、ふもとの岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いい、弘法大師は大変喜び毘沙門天像を刻んで岩窟に安置しました。 毘沙門天の岩窟があります。大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟。 大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。 この辺りは、幼い大師がよく遊んでいた所だそうです。 満濃池を完成に導けたのは、大師をしたう人々が3万人も集まり協力。 3年かけても出来なかったのに、3ヶ月で完成させた。 本尊真言・おん ころころ せんだりまとうぎ そわか 御詠歌・十二神 味方に持てる 戦には おのれと心 甲山かな |